《ヒトクチさいず#10》心のソーシャルディスタンス

夏休みの初めにあった、
学校の夏季講習の帰りのことです。

正午近い時間だったので、
帰りの電車はある程度空いていました。
とはいっても急行だったので、7人掛けの椅子に1つか2つ、多くても3つくらいしかスペースはありませんでした。

私は、左右の椅子を見て、列車内を歩きました。その間空き椅子があったのにもかかわらず、です。

隣がガラの悪いおっちゃんがいたというわけでも、隣にきれいな女性がいなかったというわけでもありません。

最近のコロナ騒動によって自然と体が警戒していたのです。
ようやく席につき、ふと周りを見ました。

みんな席をみては空きがあっても座ろうとしませんでした。
その日の夜、日テレ9時の某番組で、博多の屋台が取り上げられていました。

映像はもちろん、コロナ騒動前のものの再放送ですが、とても大勢の人たちが酒を飲み交わし、大声で語らっていました。

屋台なのでスペースは小さく、「3密」なんてもんじゃありません。そして、ある女性客がインタビューに、こう答えました。

「福岡の男は寂しがりやだ」
そして、隣にいた男性と語らっていたのですが、なんと、「この方は知らない方ですよ」と平然と言っていたのが印象的でした。

私は、「今この方々は寂しい思いをしているんだろうな」と思って見ていました。そして、今日の昼、自分が起こした行動を思い出したのです。

自分は明らかに人を見ては近くにいるとそれを避け、人との間に隔たりを設けていたのです。もちろんそれは、ソーシャルディスタンスといって、よい心がけではあります。

ただ、その気持ちが大きすぎて、いたずらに人々を避け、心を閉ざし、心までもソーシャルディスタンスをとっていたのです。私はそれにひどく失望し、反省したのです。

太宰治の『羅生門』では、災害と疫病によって人心が荒れている様子が描かれています。

今年のコロナ騒動や、災害級の暑さとも言われる暑さの夏で、まさにそのようなことがにわかに起こっているのではないでしょうか。

もちろん、ソーシャルディスタンスが悪いと言っているわけではありません。感染を防ぐためにもそれは立派な手段です。

しかし、疑心暗鬼を抱き、抱かないにしても過度なソーシャルディスタンスは、人の心を閉ざし、冷たい何かが人と人との間を隔てることになるのです。

今回私はそれを痛く感じ、もう少し人に対してオープンに生きようと思いました。

みなさんも、適度なソーシャルディスタンスで、このコロナ禍を乗り越えていきましょう!

ストリングス〜高校生の貧乏鉄道旅行〜

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